京都に奈良、桜の名所いろいろ☆「お花見」が待ち遠しいのは日本人の遺伝子

京都さんぽ

「今年はいつ桜が開花するのかなあ?」

日差しが明るくなると、心がざわめきます。

京都は3月24日開花、4月1日満開、7日までくらいは美しいと発表されました。

 

 

京都での開花予想の基本木は二条城の中です。

ですから、嵯峨などでは一週間ほど遅れることになります。

 

円山公園の枝垂桜は歳をとり、ライトアップで寝られなくてどんどん弱っていきました。一時は枯れかかっていましたが、元気を取り戻して綺麗に咲いてくれています。

 

 

京都で最も有名な円山公園の枝垂れ桜は生き返りました。

その子供達も元気に美しい花を咲かせています。

 

円山公園の枝垂桜の子供は綺麗に咲いています。

 

 

円山公園から南へ高台寺までのお散歩はお花見には絶好のコースです。

 

高台寺の道

 

 

花見は弥生時代から稲作に関わる宗教儀礼でした。

 

 

農耕民族である日本人にとってお米は何よりも大切なものでした。

桜は春に田の神様が宿る神聖な木とされ、花の下ではお米の豊作の「予祝」をしたのです。

 

 

「予祝」とは望む未来が得られたものとして先にお祝いすることです。

「念ずれば花ひらく」ですね。

祈願の祭事に携わる者同士が酒を酌み交わして関係を深めました。

 

 

日本書紀に記されているのは812年に嵯峨天皇が神泉苑(二条城のすぐ南)で催した「花宴の節」

 

その後、恒例行事となり源氏物語にもその優雅な模様が綴られています。

 

 

鎌倉時代になると武士たちによって花見の風習が全国に広まりました。

「徒然草」にも田舎の人々が歌を詠みながら花見をする様が描かれています。

 

吉野の桜を始めて見に行きました。こちらが中千本

 

奥千本から中千本の金峯山寺を望む爽快な風景です。

 

戦国時代には太閤秀吉が絢爛豪華な「吉野の花見」「醍醐の花見」を催しました。

「花は桜木、人は武士」

 

一休禅師の言葉がありますが、

とりわけ武将はパッと散る桜の潔さ、死生の美学に心を寄せたのでしょう。

 

 

戦いのなくなった江戸時代には、庶民に花見の風習が広がって行きました。

 

品種改良でソメイヨシノが生まれたのも8代将軍吉宗の頃です。

名所に集いお花見弁当を食べ、お酒を酌み交わすようになりました。

質素倹約令に対する不満のガス抜きとして花見の場が幕府の政策として推奨されたのです。

 

 

年に1度の無礼講の場として花見は大切な人日本文化の1つとなりました。

 

 

お花見を待ち焦がれる日本人の思いは1000年以上にも遺伝子レベルに組み込まれています。

 

 

秋のお米の豊作を願って桜の下で酒を酌み交わした先祖達の思いにもう一度立ち返るのもいいのかもしれません。

 

戦争が始まり、ニュースで流れる悲惨な光景に心が痛みます。

よそ事なんて言ってはいられません。

石油も小麦も も大変な値上がりをしています。

 

 

高くなったと嘆くより、

電気もできるだけ使わない、車もできるだけ乗らない、

パンよりご飯、

そんな生活に戻れと言われているような気持ちになります。

 

 

コロナも戦争も、ひょっとしたら昔からの生活の良さを大切にせよとの示唆なのかもしれないな〜と思うのです。

 

 

「品格の教科書」は全国の書店さん、

またはアマゾンで手に入ります。

 

 

 

 

山本由紀子

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明治創業、岐阜の山本呉服店に生まれ着物に囲まれて育つ。大学時代を京都の親戚で過ごし金沢の呉服屋さんで勤め山本呉服店入社、代表取締役。雑誌商業界などで「売らず...

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