北海道の東の果てに「岐阜」?☆「品格の教科書」p160 不運こそ最大のチャンス
「岐阜橋」「岐阜」「岐阜集会所」・・・ アレっ?
これって北海道開拓時代に岐阜から移住した人たちの町なんでしょう。
夏休みをとって、久しぶりに北海道の道東へ。
北海道のうちでも最も東、オホーツク海に面した常呂町。
常呂町といえば、あのカーリングで世界一になった「ロコ・ソラーレ」の彼女たちが住む町です。
町の中心部に「カーリング場」の表示も出ていました。
こんな所だったんだー〜!
夢を諦めないことの素晴らしさを思いました。
北海道には移住者たちが故郷の地名を付けた名前が各地にあります。
調べてみると
根尾川の度重なる氾濫、明治24年の濃尾大地震により、岐阜県揖斐郡稲富村三反畑から移住。岩見沢に移住していた岐阜県出身の林喜太松氏が常呂原野の土地貸与許可を受け、現地に仮小屋を建てて帰り、翌31年5月、岩見沢からの移住者と岐阜県揖斐郡、本巣郡の両郡からの移住者あわせて21戸が家族とともに入地したことに始まります。
揖斐郡と本巣市・・・まるで当店の地元!
明治に起こった濃尾震災がとてつもなく怖くて1週間は家に入れなかったと何度も祖母に聞かされていました。
今でも、本巣市根尾にはその時の断層が資料館として保存されていて、その落差は6メートルもあります。記憶に新しい阪神淡路大震災の断層でも最大で210センチだったのと比べると凄まじい地震だったと推測できます。
それにしても本州の真ん中に位置する岐阜から北の東の果て、遠く離れた未開の地へ移住するのは心細く大変な苦労だったことでしょう。
「創業者の祖父は岐阜の出身でした。明治時代に13歳で北海道へ開拓に行きました。あまりの厳しさに1ヶ月で逃げ帰ってきて、京都の染め物やへ丁稚奉公に上がりました。北海道での大変さに比べたらなんでも耐えられたそうです」
と話されたのは取引先の京都の大手の染屋さんの社長さんです。
1ヶ月だけとはいえ、その経験があったからこそ京都での丁稚奉公に耐えて独立、立派な会社の礎を作られたのでしょう。
北海道開拓の経験もその後の成功への物語、必然で仕組まれていたように思えました。
イヤな出来事、不幸に思えることも「あのことがあったからこそ今がある」と思えれば最幸です。
幸、不幸は表裏一体!
どう向き合って、良い方へと導くのは自分の心の持ち方次第なのでしょう。
北海道のドライブ中にこんなことを考えていました。
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