家の中に川が流れる呉服屋☆山本呉服店 創業物語1

ここは岐阜県の揖斐(いび)濃尾平野の一番北です。裏山には揖斐城があります。
その昔、揖斐は城下町として大変栄えた街でした。
江戸時代の中後期、徳川の9大将軍の時代(1750年ころ)は飢饉と農民一揆があちこちで起こっていました。

先祖代々の墓には4面にびっしりと法名が刻まれています。昔のことは法名と亡くなった日が記され繰り出し位牌から知るしかありません。
そんな時代に隣町(現在の大野町)から兵八(ひょうはち)がこの街に移り住みました。
「たわけ」漢字にすると「田分け」という言葉があります。バカという意味です。
子供が可愛いからと言って、田んぼを子供達に分けたら皆が暮らしていけなくなる。そこで長男だけを家に残し、後の子供は外で自立して働けと、幼くして出されたそうです。

宝暦年間に牛洞(現、岐阜県大野町)から分家 伊尾町(揖斐)居住、商業にて立チ <長念寺に残る資料>
「兵八」も名前からして、八男だったのでしょう。
自分で店を持つまでには相当苦労したのではないかと偲ばれます。
始めたのは料理旅館、今で言えばビジネスホテルです。宿帳を見ると近くは岐阜、愛知から、遠くは大阪や神戸から、商人たちが商いをするためにやってきて、一週間とか長い人は一ヵ月も逗留していたようです。
その頃は毎日着物の生活でしたので、長く着ているとほころびたりしたのを直してあげたり、新しい着物を準備していました。
困っている人の役に立っているうちに自然に呉服屋が始まったようです。

江戸時代後期の絵地図です。黄色で塗られた道の上に字が書かれてある「池田屋」さんは今も同じ町内にある作り酒屋さんです。それ以外は名前で書いてありますが読めません(残念)<揖斐川町資料館より>
絵地図にも記されているように、細長い家が軒を連ねています。
江戸時代は店の間口(道に面した店の幅)で税金が決まったため、間口は狭く奥に長い町屋作りになっています。
店の奥には中庭で、川が流れています。その裏には築180年以上の2階建の座敷棟があります。その向こうには裏庭、出るとまた川が流れていて三輪神社です。
今も間口は5.5メートルほどなのに、奥行きは60メートル以上もあります。

築180年以上も経つ奥の座敷です。夏になると建具を外し、簾に変えます。緑を切り取った風景の美しさにほっとします。
その2本の川は揖斐城のお堀の跡だと言われています。
夏の初めには家の中庭でホタルが舞い、川には魚が泳ぐのを見られます。
家の中に川が流れているというと豪邸を創造されるのですが、世にも稀な長い長い家なのです。
続く
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