「何が大切なのか」視線のゆくえ☆祇園の大女将の教え
「お座敷じゃないですよね〜?」
正座が苦手な人が増えたため、畳の上に正座をするのは嫌われます。当店でもお客様をお連れする時、必ず聞かれる方があります。
料理やさんでも最近はほとんどがテーブル席です。
お庭が見える料亭などでは視線の高さを変えないために畳を凹ませて座れるようになっています。
畳の上にテーブルを置くとお庭の見え方、角度が変わってしまうからです。
こういう席が多いです。
畳の座敷に机と椅子を入れたタイプです。
窓からの景色が見えなければ、床の間以外はあまり視界は変わりません。
女将さんが来てご挨拶してくださるのも、扇子を前に置いてきちんと正座されているとなんだか申し訳ない気になるものです。
お料理を運んでくださった仲居さんはいちいちきちんと座ってふすまを開け締めして運んでいらっしゃいました。
ただ、椅子席に座っている私たちからはあまりに見下ろす感じがして、時々戸惑います。
料理やさんで食事をいただくのは、お店の方だけでなく客と互いを思いやりながら、良い場を作るものだと思います。
お金を出す客が偉いわけではありません。
そこまで磨いてこられた技術や思いに対して尊敬の意味を持っていただくものだと思っています。
そう思った時に、
和室の作法は確かにそうなのですが、果たしてそこまでやる必要があるのか?
かといって、立ったままでは雑に感じるのだろうなと思ってしまいます。
悩ましいものです。
住まい方が変われば、こういったことも変えていいのではないかと思いながら見ていました。
ところで、座敷も和式のトイレも絶滅危惧種になってしまいました。現代では探さないとお目にかかれないのかもしれません。
ある時、祇園の主のような大女将さんが言われました。
畳の上で立ったり座ったり、
和式のトイレでしゃがんだり立ち上がったり、
否応なしにやってきたからこそ日本人は筋力が衰えなかったのだと。
「今は楽することばかり覚えてしまってあきまへんなあ〜。尿漏れパットなんて日本人には必要なかったのに。」
なるほどと思いました。
便利を手に入れることは進化かもしれません。
楽なことを覚えたら元へは戻れません。
でもふと気付くと、その代償は大きいのかもしれません。
明治生まれで、大正・昭和・平成・令和? 今生きておられれば100歳でしょうか。
時々、一世紀生きた人の深い言葉を思い出すのです。
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