昔の風呂敷から読み取れるその時代☆妥協を許さぬ母の仕事
「こんな風呂敷、あったんだ〜」
大掃除で過去の記憶がよみがえりました。
昔は何かというと風呂敷を配る習慣がありました。
大きく広がる、包み込む、結ぶ、と縁起が良いと考えられていました。
「むき出しで持って歩く」と言うのは下品なことと考えられました。
中身を傷つけたり、汚したりしないために風呂敷で包んで保護することが当たり前でした。
また、何を持っているか、中身が見えてしまうのを嫌いました。
現在のように「袋」なんてありませんでしたから、何でも風呂敷で包んで持ち歩いたのです。
「もしもし 140番」 この意味、わかりますか?
黒い電話の数字を選んでグルっとまわします。その戻る時間によって電話機が数字を認識するのです。
Z世代ではどうやって使うのかも分からないのは当たり前ですね。
「ご婚礼衣装の店」
結婚は家と家の「婚礼」であり、特にこの東海地方では女性は結婚する時に必要なものは実家で買い揃えて持って嫁ぎました。
箪笥、布団、着物、台所用品など雑貨、お米も一年分くらい、、雑巾まで縫って持って行ったものです。トラックに何台あるかが立派なお嫁入りかどうかで競われた時代でした。
着物も儀式用、普段に着るものを揃えられました。
お母さんは、女の子にはいつかそんな日が来ると早いうちから着物を準備されました。一番かさばらないので順に用意するには適していたからです。
白い雪だるまを横にした形は「繭」です。
絹はお蚕さんが作る繭から糸を引き出して作ります。
「きものと別誂婦人服」 これは私にとってずっと懐かしい〜思い出があります。
結婚する前、母は岐阜の洋装店でデザイナーの仕事をしていました。
お客様が着られる用途を聞き、その方にお似合いのデザインを相談しながらスタイル画を描き、生地を選び採寸します。原型(型紙)を起こし、縫い子さんにお願いします。出来上がる前に「仮縫い」でお客様に着ていただきフィッティングを調整し、出来上がったら納品するという仕事です。
結婚した時、父はその仕事を活かせるように店の一方の壁一面に服地をかけてオーダーの洋服屋を始めたのでした。
店の裏の6畳間ほどの部屋にはいつも7、8人の縫い子さんが居てオーダーの洋服を縫っていました。一人っ子だった私はいつもその部屋へ入って行って叱られました。
今から思えば針を扱う真剣勝負の場だったからでした。
すごく几帳面な母の仕事は本当に丁寧で厳しかったのを覚えています。
そして妥協を許さぬ仕事ぶりは今も変わっていないなあ〜と思うのです。
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