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京町家の路地は和服で歩くと丁度いい「間」が確保されている☆着物を着て気付かれた事その2

きもの男子

京都にはたくさんの路地があります。そこを歩くと不思議と落ち着きます。

着物を着ることと路地の空間の関係について、先日来てくださった池田さんが言語化してくださいました。着物を着て歩くと丁度いい「間」が保たれているというのです。

 

昨日の「丹田」のお話に次いで2つ目の気付きです。すごく納得できたので引用させていただきます。

こちらのお話もよろしかったら見てくださいね。

男性の帯は「丹田」への意識センサー☆座禅やマインドフルネスと同じように身体と精神を整えます。

山兵さろんも路地を入ります。

「間」…京都の町家の間を走る路地。和服で歩くと全く違う感覚がありました。

和服で歩くと自然と胸を開き、歩幅は小さくなり一軸では無く二軸歩行になる為、他者とのすれ違いの際の空間面積はかなり広めになります。つまりお互いに大きな面積を見せながらすれ違います。

着物を着ると胸が自然と広がり面積は広がります。

 

コレはいわば「自己開示面積」が大きくて自己存在をアピールしながらすれ違うことになります。それだけ他者への意識も大きくなり、他者と自己の存在を認め合わなくては関係性を保つ事が出来ませんが、絶妙なあの路地の間隔は「もしかすると計算されているのか?」という感覚がありました。つまり人がすれ違う時に自然な感覚ですれ違える間隔(相手の表情や所作を視覚情報としてきっちり捉えられる距離)…という感じがしたからです。

また、あれだけ軒がひしめくとそれぞれの家屋の世界観がごちゃまぜになる感覚もありますが、あの路地の間隔が「同空間でありながら異世界の混雑を許容させている」という事も感じました。そうです…絶妙な「間」が生み出す世界観…。コレも和服で歩かないと感じられませんね。

 

京都の街を3人で着物で歩きました。

 

間の意識の根底には、日本人が自分と他人との関係を非常に重視する思想があります。人間(にんげん)という意味は人と人との間柄のなかに人は存在しているという意識の表れだったようです。着物を毎日着ていた時代に空間や時間の間に微妙な「間」を確保してできたのが路地の広さだというのです。「なるほど!」と思いました。微妙に落ち着きながら人の領域を侵さない、いわばそれが日本人の「間」の取り方なのでしょうね。

そして今も残る路地になぜか安心感を感じるのもそういった理由なのかもしれません。

着物を着ることでそんな空間の世界観まで考えられた池田さんに教えていただいた思いがします。

 

 

山兵さろんのある路地を着物で歩いてみてください。日本人が大切にしてきた微妙な「間」にここと良さを感じられるかもしれません。

山本由紀子

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明治創業、岐阜の山本呉服店に生まれ着物に囲まれて育つ。大学時代を京都の親戚で過ごし金沢の呉服屋さんで勤め山本呉服店入社、代表取締役。雑誌商業界などで「売らず...

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