水で「清める」ということ☆季節の「花手水」
「わ〜、美しい〜〜」三輪神社の花手水が美しくて、思わず写真を撮りました。
暑い暑いと適正に冷房を使って不要不急の外出を避けていたら、パソコン相手に全く動かないでも一日が過ぎていきます。
一日の歩数が137歩のことも。
これは、ヤバイ!
散歩を再開することにしました。
外へ出るのは気温が低い早朝に限る → 三輪神社へお参りして → 裏山へ登れば金毘羅社に白山神社がある → 時間が短くても運動になる → 帰りにはお墓の掃除をして
たった3000歩ほど、ゆっくりしていても1時間、短縮すれば20分 健康とご利益たっぷりのコースです(笑)
こんな地の利を生かさない手はない!
まず三輪神社へお参り前に手を清めます。
神道において神社の敷地は聖域です。
かつては聖域を訪れる者は必ず神社の周辺に存在する河川や湧き水などで身を清めていたそうです。滝行とも通ずる、みそぎです。 時代とともに湧き水や清流の確保が難しくなったため、それに代わって身を清める施設として『手水舎(てみずしゃ)』がつくられるようになりました。
花手水とは、もともと野外の神事で水が使えないときに草花や葉についた朝露で手を清めることを「花手水」といっていましたが、
京都の「柳谷観音楊谷寺(やなぎだにかんのんようこくじ)」が手水舎に紫陽花を浮かべたことをきっかけに、フォトジェニックと話題になり、手水鉢に花を浮かべることが寺社で広がっていきました。
茶室への道に打ち水をしておき、迎え入れるお客様へのおもてなしの心をあらわしたのも、
料亭の玄関先で打ち水するのも、来客に対して水で清めてお迎えしたのでしょう。
コロナの時に「しっかり手洗いをしましょう」と呼びかけられました。
「しっかり」とわざわざ言わねばならないのは
手に水を付けるだけで「清められた」気がするのではないかと思いました。
文字通り「水に流す」
過去のトラブルや争い事をまるでそれが存在しなかったかのように帳消しにする、
前のことを引きずらず、新しい気持ちで前に進むっていう事です。
これは、人間関係や生活を円滑に進めるための大切な考え方でしょう。
狭い国だからこそ培われた日本人のDNAかもしれませんね。
ブログの読者登録、こちらからできます
この記事へのコメントはありません。