だから続いた!お客様、時代に合わせて商売を「変える勇気」☆山本呉服店、創業130年 その以前2
由紀子の日々
「いい香り~~」梅は散り際にいい香りを放つようです。梅の香に冷たい空気が少し和らいだのを感じながら、懐かしさも漂ってきます。小さい頃、おばあちゃんによく連れてこられたお墓があるお寺にはたくさんの梅の木が植えられています。
10年ほど前、私は大きな病気をしました。生活習慣が原因だったので、全て真逆に変えました。
その一つが夜型を朝型に変えることでした。
早起きして裏の三輪神社にお参りし、お墓へお参りしてぐるっと一周お散歩する日課が10年以上続いています。ただ歩くだけよりも意味のあることに思えたし、小高いところにあるお寺は運動にもなると思ったからです。それからお墓はもっと身近な友達になりました(笑)
京都にさろんを作り岐阜と京都を行き来するようになった時、友人の岡崎の小林秋三郎商店さんにお墓をきちんとしていただきました。気持ちにけじめを付ける意味でも必要なことでした。
その時の話がこちらです。
プロとしての専門知識や技術はお客さまにとって宝物☆お盆の前にお墓が完成しました。
それを機に改めて墓石に刻まれている法名と俗名、亡くなった年に興味が湧きました。
山本呉服店は今年130周年を迎えます。その創業者は「すぎ」という女性です。
なぜ、すぎが呉服専業にしたのか漠然と疑問に思っていました。
山本呉服店は江戸中後期(徳川9代将軍の時)隣の村(現在の大野町)から「兵八」が揖斐に住み着いて商売を始めました。
その頃の揖斐は城下町としてとても栄え、商人で賑わっていました。詳しくはわかりませんが、商人相手に料理旅館を営んでいたそうです。長く逗留する客が多く、毎日着る着物の直しをしてあげたり、新しい着物を用意して差し上げることで呉服屋を併設するようになったようです。
江戸時代末期には料理旅館と呉服屋が間口を半々に分けていました。
当主がなくなると後を継いで当主になった人が「兵八」を名乗りました。
最後の8代目兵八は明治22年に40歳の若さで亡くなりました。
その妻が「すぎ」でした。
兵八が亡くなった次の年、明治23年に料理旅館をやめて呉服屋専業にしました。
江戸時代のことは余り定かでないので、すぎが呉服屋専業にした明治23年を創業として今年が130年になります。
城下町で商人相手の料理旅館、便宜を計らって呉服屋を始め、ついには呉服屋専業にしました。
その時代のお客様や生活ぶりに合わせてビジネスを変えていったのですね。
つづく
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