耐え抜いたどん底時代☆山本呉服店 創世記4

品格の教科書

余一の誠実な人柄と骨身惜しまぬ働きで山本呉服店はお客様を増やして行きました。呉服屋として地域一番店となり、余一は周りから押されて町議会議員になっていました。

後に、隣の池田町に支店を開設した時でも、3代目の敬一は「先代には遠く及ばない」といつも口癖のように言っていました。

 

 

第2次世界大戦で戦況が厳しくなるとモノがなくなり、衣料品も国からの配給切符を持って指定された店で交換する仕組みになりました。一番店だった山本呉服店は配給の指定店になりました。

 

 

戦後、国の配給制度は廃止され、非正規の「闇市」が横行しました。モノがなくなったことに付け込んで法外な値段で取引される闇市だけが勢いを増していました。

 

「戦争に負けたからといって、ついこの前まで国の御用を承り、町の議員をしている自分が違法な商いはできない」余一は闇市に手を出しませんでした。当然、売るもののない山本呉服店は商売になるはずもなく、その後どん底の時代を迎えたのでした。

 

 

西陣で呉服の問屋をやっていた叔父の商売を手伝っていた息子「敬一」は家へ帰ってきてその変貌ぶりにびっくりしました。地域一番店のつもりで帰ってきたのに食べるものにも困っていたのですから。

その後、敬一の懸命な働きで徐々にお客様を増やしていったのですが、その10数年間は山本呉服店にとって最悪の時期でした。

 

そこから私は3つのことを学びました。

1、良いことばかりは続かない、良い時に悪い種が準備されていることもある

2、自分がやましいと思うことはやらない勇気を持つこと どんな時でも正しいと思う軸をブラさない、

3、短期で判断しない、右往左往することは自分をすり減らす

 

代が変わってもお付合いが続いています。

 

 

今も親子5代以上にわたってお付合いをしてくださっているお客様が何軒もいらっしゃいます。

「余一さんは絶対、闇はやらなかったよ。儲けに目がくらんだ人とは違って、信用できる人だった。だから娘にも買うなら山本呉服店でと言っているんだよ」私が商いに加わった頃、それらのお家のお祖母さんたちから言われました。しっかり見ていらっしゃったのだなあと祖父のあり方を誇らしく、感謝したものです。

 

順調な時よりも逆風の時の方が、後から考えればチャンスなのかもしれない、でも10数年の我慢をよくしたな〜と思うのです。<品格の教科書 最終章より>

 

 

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山本由紀子

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明治創業、岐阜の山本呉服店に生まれ着物に囲まれて育つ。大学時代を京都の親戚で過ごし金沢の呉服屋さんで勤め山本呉服店入社、代表取締役。雑誌商業界などで「売らず...

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